往生院城:四條畷の戦い 東大阪市

♪青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ 木の下蔭に駒とめて…♪生駒の山並みが近づいてくると、よくは知らないまま なぜか最初のフレーズを口ずさむ。明治32年(1899)発表された日本の唱歌として知られる歌は、鎌倉時代末期の武将:
         往生院と楠正行”四條縄手合戦”本陣址の石碑
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楠木正成・正行親子に纏わる「桜井の決別」の伝承を伝え国威発揚を図るものとして・楠木正成が足利尊氏を討つため建武3年(1336)兵庫湊川の戦いに下向の際:父子の今生の別れを告げる一シーンが描写されているのだが桜井駅跡は三島郡島本町桜井1丁目にある史跡!が伝承舞台の比定地と伝承される!?…が”桜井の駅”に拘ると
           岩滝山中腹にある旧往生院金堂址
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逸話も創作の域を出ず・学術上は第二次世界大戦以降「桜井駅」の実在性を含め「太平記」の創作とするのが定説。ではホントの「桜井の別れ」の舞台は…!?。南北朝期:楠木正行が幼少を過ごし・四条縄手の合戦では正行本陣となった河内岩滝山往生院六萬寺(臨済宗妙心寺派系の単立本山寺院):東大阪市六万寺町往生院が壮大な
       小楠公(楠木正行)像・往生院六萬寺:(飯盛山城にも小楠公像がある)
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寺であったと同時に城郭化された往生院城:東高野街道沿いに楠木正行本陣跡石碑が立つ巨大な要塞跡を地元:城ファンと:住職自らの案内を受けての探索。天平17年(745)に造られた六万寺の一院に往生院があり聖武天皇の勅願により行基菩薩の開基を伝え桜井寺荒廃跡に再建された六萬寺。本尊の阿弥陀如来座像は
        六萬橋から岩瀧山・山腹中程が金堂跡(往生院城址)    
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平安後期の傑作で府重要文化財指定・朱雀天皇の長暦3年(1039)念仏聖で河内国石川の安助上人によって荒廃した六萬寺が再建され往生院と公称されます。上人は東高野街道(京道)を開かれ法域も護持されるが第97代後村上天皇の正平3年(1348)建武の中興も空しく・楠木正行が北朝方:高師直軍と「四条縄手の合戦」抗争となり
           往生院の楠木正行の供養塔・東大阪市指定史跡
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正行が本陣を構えて拠った往生院の伽藍は兵火に焼かれた。「桜井の決別」の伝承を伝え国威発揚を図る:桜井の駅逸話が其の実在性を含め「太平記」の創作とされる…が、丹波市にも実在人物か?山城も当初:まぼろしの氷上城とされた霧山城主:(西波多野氏本拠城といい!)波多野宗高に関わる伝承があり、
          小さな五輪塔二基が正行・正時を祀る楠木地蔵
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越前朝倉氏に与力した刀根山の戦闘に討死・首を家臣佐伯某が持ち帰り葬った首塚や波多野神社・大正4年大正天皇御大典に送られた「従三位…」彰徳碑や第106代正親町(おうぎまち)天皇即位(弘治3年?)の祭典に際し荻野直正・毛利元就の子:小早川隆景らと京都の警護にあたり、侍従の位と桐の御紋と旗を賜り
           往生院城:石積みのテラスが何段も続く
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面目を施した…という…よく出来過ぎる逸話だが、群雄割拠の時代・突然の来住・波多野秀治(八上城)の威を借りたにしても在地領主らを差し置いての行動…等や、一族菩提の寺も墓地も居住区のない…等々:河内ではなく三島郡の”桜井の関”に史跡とも云えない創作石碑・伝承の古木?や祠…、
           井戸跡の北・谷に面する土塁
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丹波:霧山城北山麓に、実存人物?とはお思えない西波多野氏初代の一族墓所も神宮寺社も無いが首塚・波多野神社・顕彰碑…等、何れの逸話にも共に”腑に落ちない遺物”部分”が散見されるが、桜井の別れとは楠木正成が幼少期を過ごしていた古:桜井寺(六萬寺往生院)で正行に逢ったとするのが会釈に無理がない…
            霊光院・小楠公(正行)終焉之碑
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