加古川舟運Ⅰ 阿江与助・闘竜灘 加東市

播磨国・北播磨の賀毛郡(賀茂郡)が賀西郡(加西市…)、賀東郡(現加東市)に分かれるが、小野町が市制施工で離れ、社町・滝野町・東条町が合併により加東市が誕生して今年(令和8年3月)20年を迎えた。丹波市よりR175号を南下・西脇市境を越えると多井田の「闘竜灘東」交差点を294号へ右折し加古川を渡る…
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橋の上から直ぐ下手を眺めると…!川底一面に敷き詰められたような岩盤帯。公園化された河原の駐車場からは、荒々しく起伏する奇岩・怪石に阻まれて落差約3mの岩間を激流が白い帯となって流れている。清流と跳び鮎の名所としても知られ、此の地を訪れた幕末の詩人梁川星巌は岩を裂き・躍動する水流と
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幾重にも重なる岩場の様相から、流れる滝はまるで竜が闘うよう…と表現した詩から…闘竜灘と名付けられた。加古川上流の旧佐治川から多くの支流・枝流を集め、篠山川との合流点(出合い)から北播磨の西脇・加東・小野・三木・加古川各市を抜け高砂市で播磨灘に流れ出る加古川を、高瀬舟や筏による物資輸送の
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加古川舟運開発(全国初とも…!)の創始者として携わった阿江与助源正友(加東郡河高<現:滝野町>)がいた。阿江家は赤松一族の嘗て豪族!?。河高構居の河高氏が嘉吉の乱に滅亡した赤松家再興を願い吉野の後南朝に討ち入り奪われていた神器の一つ?を金鑵城の中村小四郎らと奪還した”長禄の変”赤松浪人の一人。
       南帝御首塚(仁享親王御陵:清慶寺 加西市中野町)
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闘竜灘には加古川舟運の創始者阿江与助の銅像が立ち、河東碧悟桐<松山市千舟町生まれ:正岡子規の高弟(1873‐1937)で高浜虚子とは尋常中学校の同級・子規門下の双璧と謳われた>が大正5年(1916)闘竜灘を訪れた時に播州寝覚と題して詠んだ「跳びあへず渦巻く鮎の ひねもすなる哉」の句碑が立つ。阿江与助銅像は
           河高構居比定地?付近
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戦時中に供出され現在のは二代目?。姫路城主木下家定(秀吉の義弟:妹が秀吉の妻:おね)の命をうけ東播磨の豊臣氏領を管理していた秀吉一族の地頭:生駒玄蕃が貢米輸送にあたって加古川に注目し財力のある大庄屋阿江与助達に滝野付近の通舟を妨げる川底の岩石を除去し・浅瀬に水路を通させ慶長9年には、
            舟運開発創始者:阿江与助源正友の像
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姫路藩主池田輝政命により滝野以北の浚渫普請には西村氏等により田高までの開削に成功。旧加古川起点は旧佐治川と篠山川の合流地点。畑瀬橋の直ぐ下流:津万井堰を亀甲式の石組に改築する等・加古川の治水開発に携わり、津万郷発展の礎を築き「津万井堰・郷土の恩人笹倉忠左衛門顕彰碑が西林寺に建つ小野市史…等を参照
次回:加古川舟運Ⅱ 笹倉忠左衛門と船座・舟運盛衰

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