加古川舟運Ⅱ 笹倉忠左衛門と船座・舟運盛衰

加古川舟運は滝野舟座・田高舟座から更に慶長11年(1606)には加古川上流旧佐治川の本郷まで通船が可能となり此処に舟八艘の舟座が置かれ、柏原川が佐治川に合流する母坪・稲継付近には初期の頃・舟留があったが柏原川・高谷川への
            笹倉忠左衛門の顕彰碑(西林寺:西脇市)
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逆流(母坪付近浸水被害が発生していた)を防ぐ等…河川改修(約1kmの背割堤)により消滅したが高砂までの約50kmが貫通していた。旧佐治川は水量少なく・通舟期間は灌漑用水が不要となる秋の彼岸から翌年の八十八夜まで。
          畑瀬橋(最奥)と津万井堰
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荷物は底の浅い高瀬舟により主に大名の年貢米・大豆・薪炭等を積み出し、戻りには塩・干鰯・藍玉・灯油等であったという。本郷の地は但馬・丹後からの物資の集散地として賑わっていた…が明治32年(1899)阪鶴線(福知山線)開通により、
           三ヶ村井堰:顕彰碑(黒田庄町):至山城南麓
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経済・文化交流の動脈として活躍した舟座300年の歴史は鉄道 ・車輸送に引き継いで身を退くことになった。加古川を開削し高砂までの舟運を文禄3年(1594)頃…加古川舟運Ⅰ:(闘竜灘を参照願います)可能にした河高の阿江与助だが、河川が荒れる度の浚渫作業も大変だが、
         加古川(船戸橋・梶城山城から正面に蛇山岩尾城を望む
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闘竜灘の岩床と落差3m程の滝に阻まれ、高瀬舟も筏も流せず此処が物資の中継基地となり一旦:舟荷を解いて荷物の積み替えが行なわれていた。幕藩の旧体制は明治新政府により舟座は廃止され、過渡期の混沌とした時代だけに
          旧佐治川:本郷舟座跡(丹波市氷上町本郷):尻引マント伝説地
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請求は認められなかったが・明治新政府により加古川最大の難所・闘竜灘の開削許可が降りたのが明治5年翌:明治6年(1873)但馬生野銀山のフランス人技師セームの指導により、ダイナマイトにより掘割水路(長さ180m・幅8m・深さ4m)の
         篠山川も大河城南麓付近までは舟運で栄えていたか?嫁ヶ橋伝承地
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開削が完成し舟運も栄えたが!!…輸送手段は舟運から加古川方面への馬車・明治32年の阪鶴線(JR福知山線)・大正2年には播州鉄道(JR加古川線)へと引継がれて廃れ・長い歴史を終えた。

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